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2013/01/08

「ひとの目、驚異の進化」 マーク・チャンギージー


人間の視覚能力についての研究で、4つの話題がある。

1、人間の色覚が発達しているのは、肌の色の微妙な変化を見分けるためである。肌の色は血中のヘモグロビン濃度と酸素飽和度の組み合わせによって様々な色合いに変化する。それらは、その人の体調や感情を示している。

2、人間の眼が頭部の前に二つ付いているのは、立体視のためというより、茂みの中で葉っぱの向こうを見通すためである。

3、人間の視覚が錯視図形で錯覚を起こすのは、現在の視覚情報から未来の状況を予測しようとする働きが自動的に作動するため。

4、人間の脳が文字をうまく扱えるのは、文字の形状が自然の中に現れやすい形状の組合せでできているから。

カジュアルな文体で内容もなかなか面白かったが、啓蒙書のわりに話が丁寧過ぎてややまわりくどい感じはする。もうちょっと簡潔にまとめた方が判りやすいと思うところもあった。

2010/12/01

「音は心の中で音楽になる」 谷口高士


副題は「音楽心理学への招待」。音楽心理学というジャンルの様々な研究を広く紹介する本。僕が音楽について考えているいろいろなギモンに答えてくれた。

例えば、楽器の演奏によって喜びや悲しみなどの感情を表現し、聴き手に伝えることができるかという実験がある。それは可能だそうだ。テンポや強弱によって感情が伝わる。ただし、フルートで怒りを表現しようとしても、喜びに聞こえたりするらしい。

何度も聴いているうちに音楽の印象が変わる理由についての研究もある。まず、人間は刺激の複雑性が中くらいのときに最も快く感じるという「バーラインの最適複雑性モデル」を仮定する。同じ音楽を何度も聴くと、慣れて複雑さが減るように感じるわけだから、元々複雑度が大の音楽は聴けば聴くほど複雑度が中くらいに近づいて快くなる。逆に複雑度が中の音楽は聴いているうちに複雑度が下がってつまらなくなってくるわけである。この話は僕の芸術論にやや通じるものがある。

他にも好きな音楽を聴いているとつらい作業に長時間耐えられるとか、ややこしいことをするときには単純な音楽を好むとか、どうでもいいような役に立つような研究もあって面白かった。

(追記)この本を読み終えて、当時高校生だった音楽好きの息子に譲ったのだが、その後、息子は大学でこの本をテキストにした授業を見つけて履修していた。

2010/01/11

「マグネシウム文明論」 矢部孝/山路達也 (PHP新書)


海水からマグネシウムを取り出して燃料や電池として使おうという話。太陽光をレンズで集めてレーザー媒質に入れると赤外線レーザーが出るらしい。そのレーザーでマグネシウムを精錬する。

太陽光発電と違うのは、エネルギーをマグネシウムとして簡単に貯蔵・運搬できることである。マグネシウムは既存の火力発電所で燃やすか、マグネシウム燃料電池として使うことができる。

燃料電池の燃料は今のところ水素ということになっているが、水素を貯蔵するには高圧しなくてはならず爆発の危険もある。マグネシウムは固体で置いておく分には危険は無い。また、電気自動車やハイブリッド車に使われているリチウムイオン電池の問題点もマグネシウム燃料電池なら克服できるという。マグネシウムはリチウムよりも豊富にあるし、マグネシウム電池の方が重さ当りの電気容量が数倍多いから電池が軽くなる。

さらに良いのは、海水からマグネシウムを取り出すときに淡水化もできて、世界的水不足の対策にもなるということ。なんか多くの問題が一気に解決できるようだ。この先生はもともとレーザー核融合をやっていた人だが、核融合よりこっちの話の方が有望そうだ。

ところで、僕は去年、取引先の会社から相談を受けて、太陽光を集光するフレネルレンズを設計してみたのだが、レンズ一枚で太陽光を集めるのはなかなか難しいことが判った。太陽の光には色々な色(波長)が含まれていて、一枚のレンズだと色が分かれてしまってうまく一点に集まらない。そこをどうしているのかと思ったら、「そもそも太陽の像の大きさに比べて色によるズレは小さいから問題ない」という意味のことが書かれていた。僕は太陽の大きさのことは考えていなかったので勉強になった。

2009/02/18

「サブリミナル・インパクト」 下條信輔 (ちくま新書)


潜在認識について認知神経科学的に考えている。面白い。

我々はなじみ深さ(親近性)を好む傾向と目新しさ(新規性)を好む傾向の両方がある。それらは矛盾するようだが、親近性は潜在レベル、新規性は意識レベルの好みに現れるのである。なるほど!

我々はコマーシャルや政治的な情報操作により潜在認識に働きかけられコントロールされている。マクドナルドの椅子が硬いのは、座り心地の悪さによって身体に働きかけて客の回転を早くするためである。それに対抗するには座布団を持っていけばよい。現代社会に溢れるメディアや広告の様々な働きかけに対して座布団的な対処が必要なのだ。

独創性を発揮するには全体の状況をよく分析し、しっかり把握してから忘れることが大事だ、とか。だいたい僕の考えと同じだなあと思うが、よく考えたらこの人の前著「サブリミナル・マインド」は小脳論の参考文献に挙げていた。

この本の主張によく似た話は昔、栗本慎一郎がしていた。要するにマイケル・ポランニーの暗黙知を認知神経科学で裏付けていくという話なわけである。

2009/01/31

「もうひとつの視覚」 メルヴィン・グッデイル / デイヴィッド・ミルナー


視覚には「知覚のための視覚」と「行為のための視覚」の二種類があるのだそうだ。なぜ分かったかというと、事故などで脳が損傷した人が損傷の箇所によって一方の視覚だけを失う場合があるからだ。

「知覚のための視覚」を失うと、モノの色や表面状態は判るが、形が判らない。形は判らないが、モノをつまむなどの動作には全く支障がない。つまり「知覚のための視覚」とはモノの位置や大きさと無関係に形を知る機能である。

「行為のための視覚」を失うと、モノの形ははっきりと判るのに、それをつまみあげるときには手探りをしているかのように苦労する。つまり「行為のための視覚」はモノの形と無関係に位置や大きさを知る機能である。

「知覚のための視覚」は我々がテレビを見るときに使っている機能で、物体の位置や大きさは相対的である。だからテレビ画面のサイズが違っても問題はなく、形の情報(例えば人の顔)は時間が経っても保持される。しかし自分の身体の動きと無関係な相対座標系の情報なので行為の役に立たない。

「行為のための視覚」は自分の身体を中心とする座標系を用いていて、絶対的な位置や大きさが必要である。身体を動かせば刻々と情報が変化するので一々意識していられないし、記憶にも残らない。

ではなぜそのような二種類の視覚があるのか。我々は「知覚のための視覚」によって考え、その考えを実行するには「行為のための視覚」を使うということのようである。僕の言い方だと「我々は現実世界と自分の中にある仮想世界に同時に存在しているからだ」ということになる。当然のことながら「行為のための視覚」の神経経路は「感覚運動制御器官(橋、上丘、小脳など)とも連絡している」とのこと。

著者は二種類の視覚の協調を説明するために遠隔操作ロボットの話をしているが、僕も人間の「大脳-小脳システム」が遠隔操作ロボットと同様の構成だと考えていたので、我が意を得たりである。

”私たちの「見る」ものの多くは、そこにあるものについてのもっともありうる仮説にもとづいた内的創造物なのである。” という一節も僕の「我々は眼でものを見ているのではないと全く同じことを言っている。小脳論的世界観はどんどん科学的に裏付けられつつあるようだ。

2008/03/14

「その数学が戦略を決める」 イアン・エアーズ


「テラバイトのデータ計算が専門家にとってかわる」という宣伝文句の本。地球温暖化なんかのシミュレーションをするような話かと思ったら、ちょっと違った。いろいろな分野で、デジタル化されたデータの統計処理によって、従来の専門家の直感より的確な判断ができるようになりつつあるという話。かなり面白かった。

過去のデータをコンピュータで分析し、何かと何かの相関を探して、統計的な推定をする。例えば降雨量からワインの値段を予測する、映画の脚本から興行収入を予測する、患者の症状から病気を診断するなど。それが従来の専門家より成績が良いのだそうである。専門家の権威が落ちるが、それはしょうがない。

身近なところではグーグルやアマゾンで我々も統計的に把握されているわけだが、平均値から離れた自分だけの価値観がどこにあるかをはっきりさせておくことも重要だと思う。

アメリカでは政策や教育方法の有効性なんかも統計的に分析して選択したりし始めているそうで、すごく興味深い。政策を実行する前に結果を予測するわけではなく、いろいろやってみて効果を統計的に比較するのである。それはなかなか良いのではないか。統計やらコンピュータがどうというより、試行錯誤の結果を見て決めるというのが良い。

ところで、「絶対計算」というのは訳者の造語かもしれないが、あまり適切な訳語ではないのではないか。データを数えて相関を探すだけのことに「絶対」や「計算」は言い過ぎのような気がする。

2007/09/21

「錯覚する脳」 前野隆司


「おいしい」も「痛い」も幻想だった、というのが副題で、帯には「意識のクオリアも五感もすべては錯覚だった!!」と書いてある。だいたい僕の考えていることと同じである。例によって映画「マトリックス」の世界に言及している。「マトリックス」的世界観は21世紀の認識論の基本だ。

全ては幻想であるということを軽い文体で科学的にわかり易く書いていて面白かった。僕の考え方と似ているところも多い。著者はロボットの研究者で、工学的観点から認識論を考えているうちに「全ては幻想だ」という結論に至ったようだ。そういえば僕もロボットの研究者になりたくて大学の機械学科に行ったのだった。

全てが幻想であるというのは著者の発見ではなくて、もっと昔にブッダが言っている。著者も今では釈迦の悟りが理解できるといい、人生論、幸福論を語り始める。言ってることはだいたいそのとおりだと思うのだが、何かちょっと短絡的なところがあるような気もする。

2006/10/31

「マインド タイム」 ベンジャミン・リベット


これはすごい。画期的な発見である。リベット先生は脳の手術を受ける患者の協力を得て脳ミソに電極を差したり皮膚を刺激したりして実験した結果、「我々の意識は現実から0.5秒遅れている」ということを明らかにしてしまったのだ。

我々が何か(音とか光とか皮膚への刺激とか)を意識するのは、その何かが起きてから0.5秒後なのである。しかし、我々はそのことに気付かず、リアルタイムの現実に接しているつもりである。そこにはトリックがあって、我々は身体が何かを感じてから0.5秒後にそれに気付くのだが、「これを意識したのは0.5秒前(つまりリアルタイム)だ」というように脳が勝手に修正しているのだそうだ。

でも0.5秒もタイムラグがあったら、スポーツや音楽はうまくいかないはずだ。たとえば100m競走のスタートが0.1秒くらいでできるのはなぜか。それは無意識の反応なのである。リベット先生もスポーツや音楽は無意識のパフォーマンスで、意識的になったらうまくいかないといっている。リベット先生は、それを芸術や科学など創造的行為のすべてに一般化したいという。

これって、まさに僕が小脳論で言っていることじゃありませんか! リベット先生は「無意識=小脳の働き」とまでは言っていないが、それ以外の話、つまり「創造には非意識的態度が大事」というところは小脳論にとって非常に強力な援軍だ。

我々の意識が感覚からの入力に対して0.5秒遅れているのと同様に、意識的に何かをしようと思うときも、その0.5秒前には脳の活動が始まっているのだそうである。我々は自分で意識的に何かを決めたつもりになっているが、実は無意識的に決めたことを0.5秒遅れで意識が追いかけているだけなのだ。面白いなあ。

この発見の意味するところは重大で、「自由意志って何?」という古来からの哲学的疑問にも直結している。だからこの本の後半もその問題に対するリベット先生の考察である。でもそのへんは小脳論にとってはあまり重要ではない。僕はもともと無意識的能力をいかに活かすかという観点で考えていて、自由意志というものを偏重していないからである。

ところで、この0.5秒の遅れは何のためにあるのだろうか。リベット先生はフロイトを引き合いに出して、経験内容が意識にとって都合が悪くないように修正されるようなことを示唆している。小脳論的に言うならば、意識的な情報処理能力というのは無意識に比べてかなり低いので、無意識的情報を意識が扱える情報に変換するのが大変で、0.5秒もかかってしまうのだと思われる。

とにかく意表を衝いた発見だが、僕の小脳論とはものすごくフィットする話である。みんなもっと無意識の自分というものについてよく考えた方がいいのだ、ということが科学的に証明されてしまったわけである。やっぱりそうだったのだ。

小脳論のページはこちら

2005/11/20

「脳の中の幽霊、ふたたび」 V.S.ラマチャンドラン


解説で養老先生も書いているとおり、この人の本は本当に面白い。脳の仕組みから「意識とはどういうものか」「美とは何か」などについて考えているところは僭越ながら僕の「小脳論」とも近い(小脳の話は出てこないけど)。

一番興味深いのは「我々が何か動作をしようとするときに、動作する意志を自覚する1秒ほど前に脳波に変化が現れる」ということ。これは我々が自由意志によると思っている行動のきっかけが、意識の外からやってきているということを示している。小脳論的には、その意識の外=小脳である!ということなるのだが...。