2009/01/31

「もうひとつの視覚」 メルヴィン・グッデイル / デイヴィッド・ミルナー


視覚には「知覚のための視覚」と「行為のための視覚」の二種類があるのだそうだ。なぜ分かったかというと、事故などで脳が損傷した人が損傷の箇所によって一方の視覚だけを失う場合があるからだ。

「知覚のための視覚」を失うと、モノの色や表面状態は判るが、形が判らない。形は判らないが、モノをつまむなどの動作には全く支障がない。つまり「知覚のための視覚」とはモノの位置や大きさと無関係に形を知る機能である。

「行為のための視覚」を失うと、モノの形ははっきりと判るのに、それをつまみあげるときには手探りをしているかのように苦労する。つまり「行為のための視覚」はモノの形と無関係に位置や大きさを知る機能である。

「知覚のための視覚」は我々がテレビを見るときに使っている機能で、物体の位置や大きさは相対的である。だからテレビ画面のサイズが違っても問題はなく、形の情報(例えば人の顔)は時間が経っても保持される。しかし自分の身体の動きと無関係な相対座標系の情報なので行為の役に立たない。

「行為のための視覚」は自分の身体を中心とする座標系を用いていて、絶対的な位置や大きさが必要である。身体を動かせば刻々と情報が変化するので一々意識していられないし、記憶にも残らない。

ではなぜそのような二種類の視覚があるのか。我々は「知覚のための視覚」によって考え、その考えを実行するには「行為のための視覚」を使うということのようである。僕の言い方だと「我々は現実世界と自分の中にある仮想世界に同時に存在しているからだ」ということになる。当然のことながら「行為のための視覚」の神経経路は「感覚運動制御器官(橋、上丘、小脳など)とも連絡している」とのこと。

著者は二種類の視覚の協調を説明するために遠隔操作ロボットの話をしているが、僕も人間の「大脳-小脳システム」が遠隔操作ロボットと同様の構成だと考えていたので、我が意を得たりである。

”私たちの「見る」ものの多くは、そこにあるものについてのもっともありうる仮説にもとづいた内的創造物なのである。” という一節も僕の「我々は眼でものを見ているのではないと全く同じことを言っている。小脳論的世界観はどんどん科学的に裏付けられつつあるようだ。

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